周辺暮らしのロケンロール

関東を中心に活動中のごちゃまぜロックバンド、五十嵐正史とソウルブラザーズの公式ブログ

今日(18日)は一日登戸研究所三昧で過ごした。

それは畢竟2015年を46歳の男として生きるぼくが、ぜひとも過ごしたかった一日であり、有意義かつ充実、新たな発見と学び多き一日であった。こんな一日を得たことを、まず師走の仕事たて込む3人職場で休暇を取らせてくれた同僚に感謝したい。

朝9時30分に、幼稚園が冬休みに入った息子と朗読劇団の一員である母ちゃんと3人で、団地から車で15分ほどの稲城市向陽台にある城山文化センターへ。
この日は東京都稲城市民を対象に、「戦後70年…甦る登戸研究所」と題した市民講座の中、登戸研究所資料館開設の立役者の一人であり、教え子であった法政二校の生徒と共に30年近く前から、かつて登戸研究所で働いていた人たちへの聞き取り調査を続けて来た渡辺賢二氏の講演と併せて朗読劇が上演される。

これまでぼくは登戸研究所について、資料館に通い文献を読むといういわば独学であったが、今日は第一人者の先生の話が直に聴けるということに、しかもその先生の講座に自分が参加出来ることに感激と共に興奮していた。

当初朗読劇は11時くらいからと聞いていたが、急きょ講座開始すぐの10時からとなり、みなさん会館の控室で立ち位置等の打ち合わせもままならないまますぐに本番になってしまい、ぼくもギターをケースから出してチューニングだけ済ませると台本を持って急いで会場に入った。

今日の会場は100人入るミニシアターのようななかなか立派な小ホールで、客席もすり鉢状でスライドを流すスクリーンも大きい。そして参加者でほぼ満席!平日の朝ということもあり高齢の方が多く見られたけれど、登戸研究所のことで、お隣の市である稲城市でこれだけ人が集まるのが驚きであった。
一瞬ここで生音はキツイかな?と思ったが、もうステージに上がり本番が始まる間際だからやるっきゃない。しかし、ぼくは一応場数だけは踏んでいるので想定外のステージに多少慣れているが、朗読者のみなさんは発声練習も出来ずに会場での声の通りも確認せずの本番である。我が母ちゃんも含めて大丈夫かしら?と思ったが、それはまったくの杞憂であった。

朗読者のほとんどが元教師のみなさんであり、朗読劇サークルで経験を積んできた方たちなので大勢の人を前にして実に堂々と声を出される。ぼくもギブソンJ-15の生音で会場に音を響かせるともうそこはこの朗読劇団の世界となった。
朝早くでもあり、会場が広いこともあってこれまでより何となくテンポがゆったりであるのを感じ、それに合わせてギターのテンポも微妙に変える。朗読者のリズムをなるべく自分も一緒に感じて弾く。そうするととっても心地よい一体感が味わえて自分のギターが劇の中の構成要素の一つになる。これがとても面白い。間違いなく活動写真弁士片岡一郎君と共演させてもらって来た経験のおかげだ。

今回も劇のヤマ場である、伴繁雄氏がモデルと思われる所員が登場し自身が登戸研究所でやったことをヒマラヤ杉に問われ独白するシーンでは、ギターの3、4弦だけをつまびくだけのシンプルな音だけれど、朗読者の声の強弱とその内容に寄り添うように弾いているうちに感情が波打ち力がこもった。

満席の観客である参加者の顔を見ると、劇に集中してくれているようで歌の場面では笑顔も見られてうれしかった。
終盤の劇中歌「多摩川音頭」ロックバージョンはぼくも一緒に歌って、これまでで一番賑やかにやれた。ご年配(失礼!)の朗読者のみなさんもすっかりノリを掴んだようである。

ドキドキヒヤヒヤのぶっつけ本番であったが、また一つ良い経験の出来たまさにライブだった。
渡辺先生も大変喜んでくれて何よりであった。

終演後は片付けした後、途中から念願の渡辺先生の講演を聴くことが出来、もうその話が良くてこんなに人の話を集中して一言も漏らすまいと聴いたのは初めてではないかと思うくらい、登戸研究所についてぼくが知りたかったこと聴きたかったことを、人柄溢れる柔らかい口調でユーモアを交えて話された。

特に亡くなる直前に手記を書かれた伴繁雄氏が、渡辺先生がいくら聞き取りをお願いしてもけんもほろろに断られ、マスコミ等の取材にも一切応じて来なかったのに、渡辺先生の教え子たち高校生が直接訪ねると、自ら逆に高校生たちに問いかけるように語り出したエピソードは、文献を読んで知っていたけれど具体的にその時の伴氏とのやりとりを聴くと、伴氏の思いがこちらに迫って来るようだった。大人には決して語らない。戦後もアメリカの反共戦略に元登戸研究所の科学者として1960年代まで協力した(させられた)伴氏は、敗戦後に軍国主義者からコロッと民主主義者となって別人のように身軽に生きた同世代の人間たちや、戦後民主主義で育ち大人になった者達に不信を持っていたのではないか?それとも自らの犯したことに対する罪悪感や後ろめたさか?

その他にも渡辺先生の話はたくさんぼくの心に刻まれた。10代等若くして登戸研究所に勤めていた人にとって、登戸研究所での仕事は楽しく幸福な青春時代であったという(高給で、しかも敵性語含む語学や技術が学べ、福利厚生もしっかりしていた)。
それは映画「小さいおうち」でも描かれていたように、戦時中でも市井の人々はそれこそ空襲などの直接攻撃を受けるまで割合みな普通の日常を謳歌していたことに通じる話だ。
しかし、登戸研究所で働いていた若者たちは敗戦の日の朝に、一切の証拠隠滅命令が下され他言を厳禁された。戦争に利用されあったことを否定された自分たちの青春時代。しかし、中には戦後数奇な運命を辿った人も居た…。

興奮冷めやらぬぼくは、講演終了後団地に戻ってから4時まで開館している登戸研究所資料館へ一人歩いて出かけ、まだ観ていなかった今年後期の展示「8.15以降の登戸研究所」を大学生でいっぱいの明大生田キャンパスへ観に行った。
すると、後から渡辺先生が今日の講座参加者を多数同行して資料館見学の説明に来られたのが見えた。家の親父と近い年齢だが、いやはやお元気である。

頭の中が登戸研究所のことでパンパンになったまま、ぼくは生田キャンパス内の弥心神社(登戸研究所が建てた神社で発明の神を祀る)境内にある登戸研究所跡碑を見に行った。
そこにはかつて研究所に勤めていた人たちが詠んだ句が刻まれている。

“過ぎし日は この丘に立ち めぐり逢う”

帰りは一駅先の読売ランド駅に行き、ヘルスよしので一番風呂に入った。「最高、最高」と呟きながら。
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