周辺暮らしのロケンロール

関東を中心に活動中のごちゃまぜロックバンド、五十嵐正史とソウルブラザーズの公式ブログ

ぼくもいくさに征くのだけれど 

2015/11/08
Sun. 18:49

この週末は、森歩き以外ほとんど家に引きこもり新曲作りとデモ音源録りをし、好きな映画をDVDで借りて観て過ごす。

デモ音源録りの中で、CD制作後新たに4曲目となる竹内浩三詩「ぼくもいくさに征くのだけれど」の作曲にも取り組み、それを完成させる。今年偶然奇遇必然とが重なり、竹内浩三の親族の方たちとお会いすることが出来、ぼくが曲を付けた彼の詩をライブで直接聴いてもらえたことで、ぼくの中でますます彼の詩が身近になり、彼の詩を歌うことを自分のライフワークとしたいと強く思っている。

けれど、今回曲を付けた「ぼくもいくさに征くのだけれど」は、彼の代表詩の一つであり、稲泉蓮氏がその著作のタイトルにしたことでも竹内浩三ファンの中では有名な詩であるけれど、ぼくは個人的にこの詩をこれまで特別好きにはなれないでいた。これまで曲を付けてきた詩に比べて、この詩は正直弱く思えていた。しかしそれは、この詩がはっきりした反戦厭戦詩ではないからではなく(そういう内容でなく素晴らしい詩は他にもたくさんある)、人がこの詩に共感を寄せる「彼も一人の弱い人間として人なみにいくさが出来るよう願っていた」という文言を鵜呑みに出来なかったからであり、この詩はぼくが思うに、おそらく同人誌“伊勢文学”に載せるべく書いたが結局何らかの判断で載せずに原稿だけが残った詩であり、公表の為に一生懸命オブラートに包むべく言葉の選択に気を使った跡をぼくが勝手に感じ、それを作品としての弱さと思っていたのだ。

これもあくまでぼくの勝手な思い込みであるのだけれど、この詩に曲を付けてぼくが歌うことで、この詩に込めた竹内の真意を少しでも自分で感じて表現出来たらと思った。この詩に込めた彼の真意とは、少なくとも出征する自分をやんわりとでも鼓舞するものではない。それはおそらく、成田山に願かける自分自身をも戯画化するほどの徹底的に醒めた目で見た出征直前の一兵士の心のスケッチだろうと思う。それを彼はどうにか公表出来るまでの表現に抑えようとしたが、ついにそこまでは至らなかったのではないか?そういう意味では、この詩は最初から公表など望むべくも無かった鋭い絶唱「骨のうたう」や「日本が見えない」などの詩と、伊勢文学に載せた詩との中間にあたる作品と言えるかもしれない。

ぼくが好まないのは、この彼の詩をもって「彼だって普通に弱かったのだから、ぼくらはみんなで手を繋ぎ声を上げなければ」という安易な集団志向へと短絡することだ。彼は最期の最期まで個として表現し、それをとっても小さな同人誌に載せて世に出すことに心血を注いだ。その生き方、闘い方は彼のキャラクターが現代に生きるぼくらにも分かりやすく共感しやすい事と同列ではない。そこは絶対に短絡してはいけない。彼の闘いは壮絶であった。だから気高いだとか言うつもりはないが、その竹内と同じ覚悟がぼくはこれからは必要なのだと感じCDを制作したのだ。それはCDのライナーノートにもちゃんと書いたどうにも譲れないところだ。

今回あらためて何べんもこの詩の言葉を噛みしめながら曲を付けて、実際歌ってみて、出征を前にした一人の若者がこの言葉たちを綴った気持ちが、やはり重い決意であり自分の感性を戦争で奪われない為の闘いに臨む宣言であったのだと強く感じた。
言葉を綴りそれを世に問うという行為には勇気と覚悟が要る。それが売らんが為の魂の無いハリボテ歌詞などでなければ。
そして、それを竹内浩三は日本が最悪だった侵略戦争の時代にやった。死ぬるまでやった。その事実は本当に大きい。

ぼくもいくさに征くのだけれど
詩 竹内浩三 曲 五十嵐正史

街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし 勝ったはなし
三ヶ月もたてばぼくも征くのだけれど
だけど こうしてぼんやりしている

ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな

だれもかれもおとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど

なんにもできず
蝶をとったり 子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら

そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた

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この連休で、藤田幸雄著「父がいた幻のグライダー歩兵部隊」を読了した。

この本は、著者の父が第二次大戦時フィリピンに従軍し、全滅したと言われていた部隊の生き残りであり、その同じ部隊に竹内浩三が居たことが分かって、父の記憶を紐解きながら当時の記録や証言を息子である著者が調べ上げ、父と共に竹内浩三の送った日々を辿った労作である。

昨夏朝日新聞に掲載された、新発見の竹内浩三フィリピン派兵直前を含む2枚の写真は、この本の著者の父親が所蔵していたもので、部隊の集合写真として著者の父と竹内が一緒に納まっていた。
著者の父と竹内は個人的に親しかったわけではなかったようだが、同じ筑波のグライダー歩兵部隊に配属され、先発した船が撃沈された後、一緒に積み残され同じ船でフィリピンに向かい、上陸後は散り散りになって突撃、転進、敗走して行く果ての雑軍までほぼ共にしていたことに、それだけでたまらない気持ちにさせると共に激しく想像を掻き立てる。

著者の父は夜間の奇襲で大怪我を負うが一生を得て、行動を共にした友人の力も借りて敗戦まで生き延びたが、竹内は4月9日にバギオという街周辺の1000m級の高地で戦死したとされている。
8月15日の敗戦まであと4か月ちょっと。しかし、著書を読むと、前年の12月初旬に筑波を立った竹内たちの部隊がフィリピンに何とか上陸出来たのが、年末から翌年(昭和20年)の正月であり、その時すでにアメリカ軍の猛攻撃を受けて、その後は物資もなくまともな態勢も作れず、生れて初めて歩くルソン島を一か八かの決死奇襲攻撃をしかけながらウロウロする日々。それを、竹内は3ヶ月以上も生き延びたことが分かり、それを思うと、著者が書くようにあんな戦争に不向きな男が本当に良くここまで生きていたと思えて来て涙が止まらなくなった。と同時に、おそらく彼が彼の愛して止まない景色や場所、人をひたぶる望郷しながら、やはり彼の見た戦争を紙片かそれこそ詩に書いたように飯盒の底にでも書きつけていたはずだと思えてならなかった。そんな彼の姿が浮かんでならなかった。

竹内のフィリピンでの足取りは、稲泉蓮氏の著作「ぼくもいくさに征くのだけれど」で彼自身が現地を旅して辿っているのだが、彼の心の動きがメインで書かれているためか、読んでも竹内が本当にそこで戦争をさせられ殺されたということが今一つ伝わってこなかった。この著作自体が竹内浩三を通して自分の心の揺れを追っているので、逆に竹内浩三が引っ込んでしまう感じがぼくにはどうしてもしてしまう。

それがこの藤田氏の本では、実際に竹内のすぐそばに居た父の体験を客観的に実証しながら綴っているので、著者の主観は極力抑えられ逆に臨場感が増す。推論もいくつかの記録から読み込んでおり現実感がある。
少なくともこの本は、筑波日記以降記録が何も残っていない竹内浩三が、最期を迎えるまでに送った日々を初めて世に知らせてくれた貴重な記録であることは間違いない。ぼくはそのことに何よりも感謝したい気持ちでいっぱいになって本を閉じた。

最終章での、竹内の姪の孫にあたる男の子の話は、竹内を好きな人間にとっては本当に涙の止まらなくなるような話である。夕暮れのヒグラシの声が聴こえるベランダで読んだ時、ぼくは彼の詩だけでなく魂も生きていることを確かに感じた気がした。彼が生きていたということが本当に良かったと思え、やはりそれを殺した政治と国を軍隊を、ぼくはこれからも絶対に信用しないし許せないのだ。

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曇り空 

2015/03/10
Tue. 22:43

曇り空
詩 竹内浩三 曲 五十嵐正史

この期におよんで
じたばたと
詩をつくるなんどと云うことは
いやさ、まったくみぐるしいわい

この期におよんで
金銭のことども
女のことども
名声のことどもに
頭をつかうのはわずらわしゅうてならぬ

ひるねばかりして
ただ時機をまつばかり

きょうも
喫茶店のかたい長イスの上にねころがって
曇り空をみている


青春の、未来への夢が詰まった大好きだった日大専門学部映画科を繰り上げ卒業させられ、幹部候補生を目指して徴兵を遅らす方策(同人誌仲間の多くはそれをやり何人かはそれで生き残った)もあえてとらず、実家のある三重県の久居連隊への入営が刻一刻と迫る中、江古田か池袋かはたまた銀座か高円寺かの行きつけの喫茶店の長イスに独り寝転がる竹内が、その表情含めてはっきりと見えて来る。

ただの諦観や捨て鉢投げ槍な魂では、こんな詩を前述の“おとこの子は”と同じく所蔵本の余白に、書き直しなく完成形として書きつけることなど出来ない。
竹内は、一番非力な立場で権力に翻弄され前線に立たされる者の目線で、その目線でしか書けないものを予感しながら、そこから見えるものすべてを書き残そうと決意した。この“曇り空”はそんな竹内の宣戦布告に思えてならない。

この詩も読んだそばからメロディーが出て来た。時間にしたらきっと1分程度のことだろう。この期(戦争に持って行かれ天皇の赤子として命を捧げさせられる)におよんで詩をつくることを「いやさ、まったくみぐるしいわい」とうたう彼の言葉を、ぼくには心の底から誇らしげに歌ってやりたい。このクソッタレな、人の命を犬のクソほどにも思わない(思えない)天皇制軍国主義国家ニッポンにおいて、俺はいまだに詩を書いてやがるぞ!ざまぁみやがれ!と、思い切り歌ってやりたい。

先日ののろライブで、急きょ“望郷”の前にこの歌を歌いたくなってぶっつけで初披露した。
ライブ後に観に来てくれたH君が、ぼくを通して竹内浩三を知り、彼の生き様や人となりが大好きになったと言ってくれてとてもうれしかった。ぼくが竹内を歌うことでこんな風に彼を知って好きになってくれる人がいることが、何よりもぼくが竹内を歌って良かったと思えることだ。

竹内が命を奪われたあの時代と根底で変わらず、けれど姿かたちを変えておぞましくクソッタレな時代はやって来ている。個人のたたかいは政治的な場で闘われるのではない。一人ひとりの、まさに生活の中の不断の小さな選択において闘われる。

今夜曲の構成も完成した。早くバンドで合わせたい。

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おとこの子は 

2015/03/05
Thu. 23:11

おとこの子は
詩 竹内浩三 曲 五十嵐正史

おとこの子は
どこへ行っても
青い山がまっている

北にも
西にも
南にも
東にも

おとこの子は
どこにいても
花がなければそだたない

北でも
西でも
南でも
東でも

おとこの子は
おとこの子は
生きてゆかねばならない

まるで最初から歌にするために書かれたような詩ではないか。
2012年発行の最新版全集(昨年古本で購入した)には、新たに発見された詩が数編掲載されており、この“おとこの子は”もその中の一つ。
大学を繰り上げ卒業させられて三重県久居連隊に入隊する際、東京の下宿から竹内が実家に送った荷物の中に、荷造りの包装紙で丁寧にくるまれた部厚い本があった。
それは詩人の北川冬彦が当時の代表的詩人36人の詩をまとめて編集した「詩集・培養土」という本で、その本の余白に竹内はこの詩やCDに収録した“ひたぶるにただ”を含むいくつもの詩を書きつけていたのだ。

CD制作直後にこの詩を読みすぐさまメロディーをつけたくなったが、せっかく竹内のCDが出来たばかりなので、いきなりCD未収録曲を作ってしまうのもどうかと思いとどまっていた。
けれど昨夜この詩をまた読んだら、もううずうずしていたメロディーが飛び出してきてしまいギターをとるや否や曲が完成してしまったのだ。
竹内の詩に曲をつける作業で、ぼくはまったく苦労した試しがない。曲を付けようと詩に対峙した瞬間にいつもメロディーが湧き出てくるのだ。そんな詩人は竹内浩三をおいて他には居ない。

この“おとこの子は”も、実に竹内らしさにあふれた味わい深い詩だ。とっても分かりやすいシンプルな、一見子どもっぽさも感じる言葉だけれど、そこにロマンや哀しさ真実が詰まっている。特に「おとこの子は」で始まる三つの詩のそれぞれ三蓮目の言葉の配置「青い山がまっている」「花がなければそだたない」「生きてゆかねばならない」は素晴らしい。勇ましさ(ロマン)→弱さ(母性への思慕、恋情)→決意(戦争という現実)という流れに、おとこの子のすべてが言い表されてしまっている。

ぼくはこの詩にちょっとリズム&ブルーズの定番フレーズを入れて、軽やかなリズムでおとこの子の哀しさと共にどこか滑稽な可愛さも出せたらと思っている。それこそまさに竹内浩三の人となりだったと思うから。
他にもあと3曲くらいは作れそうなので、数年後には竹内浩三CD第2弾もあるかも(笑)。

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ロケンロールライフ549 

2015/03/04
Wed. 23:10

先日吉祥寺の古本屋「よみた屋」さんで購入した“伊丹万作エッセイ集”を、読み終わるのが寂しいのでチビリチビリと大事に読んでいる。

敗戦の翌年に竹内浩三の消息を案じながら結核で亡くなったという、戦前の日本映画界で数多くの作品を監督し(現存するもの甚だ少なし)、病臥してからも脚本を書き続けた稀有な自由人にして個人主義者、反戦主義者で当時の狂った日本国においてまっとうな非国民でもあった伊丹氏の文章は、実に映画同様洒脱で力が抜けているようで(けれど時に個人名を挙げての痛烈な批判もある)風刺と諧謔に富んだ痛快な読み応えがある。

今日も仕事の帰りに電車内で読んでいたら、「演技指導論草案」という文章のところで思わず「あっ!」と声を上げそうになった。出だしからしばらくが箇条書きで演技や演出についての伊丹氏の考えが短文で綴られており、例えば“○法則とは自分が発見したら役に立つが、人から教わるとあまり役に立たないものだ。”というようになのだが、この書き方や文章の調子が、まさに竹内浩三が日大専門学部時代の後期に書いた散文“鈍走記”にそっくりなのだ。

ぼくはにわかに興奮しながら文庫のページを繰って、この伊丹氏の草案が書かれた年月日を調べたら(「映画演出学読本」昭和15年12月)と記してある。ドンピシャである。昭和15年と言えばまさに竹内が日大専門学部映画科に入学した年であり、結局3年に満たなかった彼のもっとも映画に接し詩を書き青春を謳歌した大学時代に、大ファンである伊丹万作氏のこの文章を読んで映画監督になる夢を膨らましつつ、戦争にとられる直前、竹内はこの大好きな師匠の文体を借りて、草稿では伏字なく“戦争は悪の豪華版である”“戦争しなくとも建設はできる”とまで書き切った「鈍走記」を書いたのだ。

伊丹氏も戦中は発表出来なかったが、この戦争が愚かな行為であり間違いであることをはっきりと書いていた。
竹内浩三は師匠とかくも深く繋がっていたかと思うと熱いものが込み上げてくる。
嘘っ八な天皇制国家の、軍国主義と言う名の狂信が支配する時代とその軍隊において、孤軍奮闘手帳に“筑波日記”を書き記していた竹内の孤独を思うと、ぼくは胸が締め付けられてならないのだが、伊丹万作という映画の芸術の師の存在が、彼を孤独地獄からおそらく何度も救ったであろうことは想像に難くない。
なぜなら、ぼくにもまた彼にとっての伊丹万作氏と同じ師匠が居るから。

家に帰り、あらためて竹内浩三全集の年表を読んでいたら、1942年(昭和17年)に大学を繰り上げ卒業させられ入隊したことが書かれた後に“このころ、手紙を通じて、伊丹万作氏の知遇を得る。”と書かれてあった。

誤魔化しと無実化の果てに迎えた敗戦70年の今年、竹内浩三の生き様は、彼の遺した作品はますますもってリアルだ。

今宵のBGMは、ボブ・ディラン89年発表の名盤「オー・マーシー」。このアルバムの音は不穏でロッキンで最高にカッコイイ。1曲目の“ポリティカル・ワールド”は今年中に意訳してみたい曲。最近話題になったディランの40分に及んだスピーチの日本語訳も読んだが、ディランの本音?トークがかなり面白かった。凄すぎる70オヤジだ。

BGドリンクはトマトジュースでした。ではまた、ロケンロール!

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2017-07